2021年8月1日平和聖日礼拝説教 法亢聖親牧師
教題 「キリスト教の平和のイメージ」
コリントの信徒への第2の手紙5章11節~21節
「人類の歴史は、発展と繁栄の歴史である半面、戦争と殺戮の歴史でもあると言える。紀元前3600年から現在までの約5600年間平和期と言われるのは、300年ほどである。この5600年間に戦争は、およそ1万5000回起こっている。」
(「いま平和とは」国際法学者:最上敏樹著より)
聖書では、「平和をどのように考えている」のでしょうか。
まず旧約聖書から見ていきましょう。出エジプト記によりますと、イスラエルの民は、神さまのお守りと導きによって奴隷の地エジプトから導き出され、シナイ半島での40年の苦しい彷徨の末、約束の地カナンに入城することが出来たとともにイスラエルの民が神さまに聞き従い仲良く助け合って暮らしていくための「十戒」を授かったということを伝えています。つまり、創造主なる神さまは、愛の神であって、カナンの地においてみ旨に適った平和な国をつくり上げるための十戒という設計図(土台)を下さったのです。しかし、出エジプト記をよく読んでみますとエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ半島でも幾多の他部族と小競り合いをし、カナン入城の時も出エジプト記には平和的な方法で城壁の町カナンに入城したと記されていますが、結果的にカナンの町を陥落させて入城したのです。だが「約束の地」に無事入ったイスラエルの民が建国したイスラエル王国は、その後アッシリア帝国やバビロニア帝国をはじめとする様々な国に支配されて行くのです。かつて自分たちが他の民を力で支配してきたように、今度は武力によって自分たちが支配されていくのです。そのような、イスラエルの歴史の中でミカ書は、次のように告げています。
「主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤(すき)とし、槍(やり)を打ちなおして鎌(かま)とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」(ミカ書4:3)
この言葉はイザヤ書2章4節にも登場し、繰り返し旧約聖書の中に記されています。剣や槍と言う命を奪う武器が、鎌や鋤といった実りをもたらし、命を支える農工具に変えられていく。「もはや戦うことを学ばない」とは、過去の反省に立ち、武力依存からの転換を決意する言葉と言えるのではないでしょうか。
次に、新約聖書のイエスさまの平和に関する言葉を見てみたく思います。
「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。」(ヨハネ14:27)
このイエスさまのみ言葉は、旧約聖書の体験的な反省に基づいた平和観と共通しています。「世が与えるように与えるのではない。」とは明らかに、イエスさまの時代にイスラエルを支配していたローマ帝国のようにではなく、と言うことです。「パックス・ロマーナ(ローマの平和)」は、圧倒的な武力によって保たれていた秩序でした。一見、平和に見える属国の国々の社会の中で、しかし実態はそのローマ帝国から派遣された総督とそのもとで働く軍隊、つまり武力的支配のもと重税に苦しむ人々がいたのです。イエスさまは、そうした武力による平和を拒否されたと読むことが出来ます。イエスさまがここで言われ、福音書全体が伝えている平和のモデルとはいったいどのようなものでしょうか。
イエスさまの平和観のキーワードは「和解」です。イエスさまの和解の象徴は、十字架であるからです。そのことを、コリントの信徒への第2の手紙はよく現しています。
「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちに委(ゆだ)ねられたのです。」(Ⅱコリント5:18,19)
イエスさまの死がそうであるように和解には、犠牲が伴います。自らが傷つく犠牲のプロセスに入っていくのです。つまり、イエスさまが示された平和観は、「平和」はすでに出来上がった状態やゴールではなく、プロセス(過程)だということです。「平和をつくりだす人たちは幸いです」(マタイ5:9口語訳)とのイエスさまの山上の説教にある通りです。
「平和」を結果ではなく、プロセスと考えると、単なる理想主義ではなく、能動的な或いは創造的な歩みとして平和をとらえ、考えることが出来るのはないでしょうか。
こうしたイエスさまの赦しと犠牲による和解を現代の世界において推し進めている団体が世界にはたくさんあります。そのうちの一つにイエスさまの平和の精神を受け継いでいる「ピースフル・トゥモロー」があり、この団体は、9・11同時多発テロの犠牲者の遺族によって創設され、現在も平和をつくりだす活動を展開しています。
「なぜ、人は争いを繰り返すのか。」と言う問いの前に立つとき、その人の生き方があらわになります。ある人たちは、それは人の性(さが)だからと言うかもしれません。実は、人は争うことを学んで身に着けたのです。つまり、本質的に備わったものでも性でもないのです。私たちは自分の主張を優先させる自己本位なあり方や、力で相手を屈服させようとする暴力性、欲するものを話し合いによってではなく強制的に奪うという手段を学ぶ生き物であるように思うのです。であるならば、共に生きることや愛や平和を学ぶこともできるのではないでしょうか。
私たちには、争いと言う手段を継続していくのか、或いは、そうした人間社会に失望して社会から距離を置いていくのか、今までとは違った新しい生き方を学び他者(隣人)と共に生きることを選ぶのかが平和聖日のこの日に問われているのではないでしょうか。できることなら、次のみ言葉を身に着けて」生きていきたく思います。
「あなた方は神に選ばれ、聖なる者とされたのですから、憐れみの心、自愛、謙遜、柔和、寛容を身につけなさい。互いに偲び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい。これらすべてに加えて、愛を身につけなさい。愛は、すべてを完成させる絆(きずな)です。また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つ体とされたのです。」(コロサイ3:12~15)